設計進捗

建築好きのブログです。

そして、建築家は失われた権能を探す旅に出た~ 3/3

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しかし、人々は現代社会に生きる過程で、建築に交流、環境、速度といった要素を求めた。

 

哲学者フーコーは、”建築は交流、環境、速度を体現することはできない。何故ならそれは建築という触知媒体の中に収められる、あるいは付与される空間の役割だからだ。”といった彼の主張を残している。

 

交流は都市といった高密度に人が集まり、その中で労働するという生活形態であり、人類の最大規模の発明だ。環境は生態系という動植物の生活を豊かにし、地理や気候に適応するために進化させるフレームワークだ。速度は情報束であり、目まぐるしく変わる人と社会と経済を表現するパラメータだ。

 

その中に建築という触知媒体が絡み合う必要性はない。空間という概念を主体の媒介にすれば事足りる。

 

つまり建築はメディアとしての役割をさらに求められている。

 

コワーキングスペースや広場という情報を持った空間は人々の交流を促す。

 

等しく温度の管理された空気の環境をすべての部屋に完備することで人は赤道直下地域に住もうと、または南極大陸に住もうとも全く同じ条件で厳しい外界に対応することができる。

 

建築という媒体に速度を設けることで、その時間差を利用して不動産は先物取引、または錬金術のように価値を生むことができる。

 

そして情報の拡散と情報を特定の物理空間に収束させて留めることを同時に行うことで、建築に影響力を持たせ、無形の権威を含ませられる。

 

現代建築は情報束として世界観、交流、速度、環境などの様々な情報を繋ぎとめる装置として機能し、これらメディアの価値の変動によって、現代建築の価値も連動する。

 

しかしこの過程を意識して、リアルタイムで変化を感じ取れる人はそう多くない。

 

私は平成生まれだが、生まれたころにはすでに冷蔵庫はあるし空調もある。建築史または世界史における媒体のパワーバランスが大きく変わったとされる出来事を自覚して生きていたわけではない。

 

例えば冷房は生活に欠かせないものだが、実に不思議な存在だ。

 

暖房や火は熱源として、原始社会に重宝された古来の由緒ある道具として利用されてきたのだが、温度を下げる道具として登場した冷房は、原理を知らなければ、まるで時間を逆行させたような、当時の人たちの熱力学に対する常識を覆すような奇跡に近い現象だったに違いない。

 

温度を上げることもできれば、温度を下げることもできる。いつでもどこでも最適な温度環境を作り出すことができ、365日を全て”最高な一日”にすることができる。

 

温度を制することは、空気を制することに繋がり、冷やされた空気を逃がさなければ、その部屋の空間は常に一定の、快適な空間だ。

 

空調は気候に応じて対策を取る建築を上回る役割をを果たした。

 

するとどうだろうか。緊急手術のために即席で展開できる無菌室のように、もはや薄い膜を膨らませ、中に理想の空気を充満させるだけで空間として使用できる。

 

煉瓦やコンクリートの壁を囲い、風雨や急激な温度変化をしのぐ必要はない。断熱性能の良い膜を膨らませるとそれだけでどんな環境にも適応して廉価で即席な空間を確保できる。そこに建築の権能は反映されない。

 

そして全地球に空調は浸透し、あって至極当前のものとして扱われるようになる。今や公共施設に空調が完備しているなんて当たり前だし、例えば多湿な環境で革製品や生ものを取り扱う商売をするなら、除湿の効かない空間ではあっという間にカビが生えて使い物にならなくなるだろう。

 

特にシンガポールは空調を前提に高密度を実現させた国の代表例だろう。建築は設備のように除湿や温度を一定管理することはできない。

 

シンガポールの建築は空調設備を組み込むことを前提として設計されている。そのため、大多数の建築の形態に気候的な特徴はあまり反映されていない。勿論植物を植えた屋上緑化をした建築はたくさんあるが、それはあくまで空間の一部に付属したものであって、それが温度管理の主導権を握っているわけではない。

 

さらに中国の高層住宅区の写真を調べてみて欲しい。中国は広い国土を有していて、多様的な気候特徴のある国だが、肝心の高層マンションは形態はほぼ全て同じであり、当地文化や地域文化、また建築形態の気候的な差異は全く反映されていない。

 

中国の北の地方ではマンションには過剰なほどの床暖房と暖房が効いていて、南の地方では冷房の効いた部屋とすごく小さなベランダがセットになっている。冬だと暖房が効きすぎて暑いので、部屋の中では半袖半ズボンになるし、夏だと逆に空調が効きすぎて寒いので、今度はクローゼットからジャケットを引っ張り出して羽織る。

 

明らかに供給だけがオーバーしている。シンガポールのように空調がなくてはならないような都市計画をしたわけではなく、空調やそうした熱環境があって当たり前になっている。

 

このあって当たり前という状態は、時に人の判断の曇らせたりもする。皆が赤信号を渡っているので、自分も赤信号を無視して渡り、皆がプラスチックのレジ袋を無料でもらっているので、自分も当たり前のようにレジ袋を貰う。

 

その行為が環境や社会に対して深刻な影響を与えるという事実が明るみに出てから、ようやく負の作用を認識するという状態だろう。

 

しかし、全ての建築に空調が完備されていて何が悪い?

 

または建築は人に従うのだから、全ての人が等しく同じ条件の空間を享受できて何か問題でもあるのか?という話だ。

 

例えば私達が普段から使用しているSNSやネットは、その空間が無限の空間を持ち、永遠に記録されているものだと多くの人は実感している。

 

ネットワークはつまるところ、高性能の集積回路を搭載したコンピューターが、擬似的に仮想の容量空間を生み出しているが、そのコンピューターが5G回線や全世界の地中や海底奥深くに通信のためのファイバーケーブルを通して、高速通信を実現している。

 

そしてスーパーコンピューターが高速処理をするために、莫大な電力を消費し、莫大な熱を放出し、その熱を冷ますために、また莫大な冷却装置、または絶対零度に近い莫大な消費が行われる空間を、維持する必要がある。

 

しかしそのネットワークを維持するために、一体どれだけ環境に悪影響を及ぼす出来事が積み重なっているのか、私達の知る由もない。便利なものはあって当たり前なので、よく知らないし、わからない。良いものは平等に享受すべきなので、全てに等しく必要だと。

 

ネットワークはA地点からB地点への往来や移動を便利にしてくれたかもしれない。飛行機は各国の空港へと誘われ、その空港に繋がる都市へ移動が便利になったことで、さらに地域経済や生活レベルの向上に貢献したかもしれない。

 

しかし、A地点からB地点への点間の移動はやがて、その過程の線や、過程を移動する最中に偶発的に起こるであろう機会や出来事から私達を引き離す。

 

つまり、すぐに移動し、即座に欲しいものを得られるようになったが、実際には、多様な機会を失い、さらには多様性を失い、豊かではなくなる。

 

報酬系を刺激されて条件反射のように、A-B間の移動を繰り返し、消費を繰り返し、生産を繰り返す。実に中毒性を持った行動の如く。

 

数量的には際限なく増大していき、効率的になっていく資本主義や、グローバル化を推し進める社会、そして何も知らずに言われるがままを為す大衆。

 

私はこのような態度に、このような考え方に辟易し、軽蔑する。

 

歴史を知らないことで、無条件に現代社会の流れに飲まれ、自分の意見を持たずに、沈むことが確定している船に乗る。資本主義が産んだ負の遺産の正体を認識することもなく、なんとなく資本主義のルールの中で建築を建てる建築家。

 

想像力が欠けているので、自分の、または社会の次の状態を予測できない。

 

まるで視界から母親が居なくなってしまったことが、この世から消えたかのように感じて、泣きじゃくる赤ん坊のように、次の出来事が全く想像できない、幼稚で、哀れな状態だ。

 

では、なにが私に想像力を与えてくれるのか。

 

それは慎重に知ることしかない。

 

過去の建築家がどんな思いで建築を作り、どんな手掛かりが残されていて、何を後の世代に受け継ごうとしているのか。

 

建築家が知るべきは、形態を与えてくれる建築史だけではなく、考え抜く力を与えてくれる哲学史、物理世界の工具としての科学史、擬似世界の工具としてのメディア史、そしてそれらに意味を与えてくれる宗教も知るべきだ。

 

薪が徐々に失われていった世界で、過去に捨てられた薪を拾い集め、自身の存在を再度照らし、燃え続け、世に残りつづける建築を作る必要がある。

 

それは少なくとも、現代建築と空間の発想にのみに宿るような自分勝手で、独善的なものではない。未来の誰かを想って建築する必要がある。

 

建築を道具として使うのは構わない。しかし、その道具が決められた使い方でしか使われないのは、寂しくて、つまらない。

 

道具を生むのであれば、使い手に色んな使い方を、そして楽しい使われ方を望むのが、作り手の根本的な欲求だろう。

 

だからこそ、私がいずれ作る建築は、色んな使い方ができるように、叡智の限りを詰め込み、皆を飽きさせないものを世に送り出す。

 

建築は自らの権能を取り戻すことで、ようやく自らの土俵で、自分を語ることができる。

 

私はもう、自壊が許された空間の絵空事には付き合わない。

 

私は建築の権能を取り戻すために、加速しすぎた時間を緩めて、いとも簡単に建築が捨てられないように、歴史を勉強し、100年後に残る建築を建てるための旅に出た。

終わりに

長文になりましたが、この先も建築研究のテーマとして掘り下げていきたい内容でしたので、なるべく社会問題や要点をおさえて文章にしたつもりです。

 

ところで、皆さんはなぜ現代のコンクリート建築の寿命が50年と定められているのか、ご存知でしょうか?

 

そう、鉄筋コンクリートは50年経ったら突然強度がガクッと落ちるわけではなく、強度を保つために内包されている鉄筋がコンクリートの劣化によって空気と水に触れ、最終的に鉄筋が錆びてしまい、設計時の想定荷重を支えられなくなるため、その材料性能の劣化の目安として50年という寿命の期間を定めています。

 

逆にコンクリートの骨子となる素材や酸化を防ぐ材料の配合比を増やし、高密度な鉄筋コンクリートを使用すると、50年以上使用することも理論上は可能です。

 

しかし、現実には都市の更新や代謝のために50年、または30年といった短いスパンで建物が建てられ、取り壊され、といったサイクルがあり、その建設スパンが都市の経済活動に直結しているため、建築は不当に、非合理的に金融道具として利用されています。

 

なぜ非合理的、といったのかというと、建築を建てるときの都市の資源と材料の使い方に問題があるのです。

 

SDGsや脱炭素といったテーマは近年よく聞くようになりましたが、例えば

  • 建築物を新たに建てる
  • 建築物をリノベーションして新たな用途を加え、増減築する
  • 建築物を取り壊す

この3つの行動を比較した場合、「建物を取り壊す」のが最も炭素と建築ゴミを発生させます。つまり建築物を取り壊す前提で新たな建築物を建てる行為は脱炭素という視点において最も由々しき事態なのです。

 

無論、建築物に使われていたコンクリートの素材は再利用できませんので、建設ラッシュに伴いコンクリートの骨子や素材不足が加速していってるのです。

 

ですが「もし、今まで建てた建築物の金融的な利用が制度によって抑止され、質の高いコンクリートで建築を作り、百年以上建築が残り続け、さらに従来の古い建築を基礎として、新たな建築が建てられた」場合

 

そんなことが可能なら建築空間の需要が増え続けても、炭素の消費やエネルギーの消費は確かに減少するでしょう。資源は蓄積し、都市も豊かになるのかもしれません。

 

同時に建築の未来はそこにあるのでは?と強く予想せざるを得ないのです。

 

具体的には、建築の材料の躍進、優良な建築を観光資源として保護する制度の設立、建築の評価、建築の管理体系の強化など様々な課題が考えられますが、建築物の周期を伸ばすための努力をやめるべきではありません。

 

そういった研究が建築の価値を取り戻し、さらに人々の豊かな生活を保証するための磐石な基礎になるのだと確信しています。

 

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