設計進捗

建築好きのブログです。

そして、建築家は失われた権能を探す旅に出た~

前置き

なぜ建築学を学ぶ必要があるのか、歴史を見直す必要があるのか。そんな疑問が出発点となり、設計の気づき、モダニズム建築や商業色が強い建築への盲目的な追求に対しての反省として文章に残しました。

 

内容は2020年10月15日noteに掲載した当時のままで、この文章はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

本文

私は今を生きる建築家だが、実際にはただの建築家ではない。建築学生の端くれなのだが、想像の建築家になりきることで、より建築を知ろうとしている崇高なるイメージトレーニングの最中なのだ。

 

今が100年後建築史に記録される頃には、私が生きた時代がどのような時代として語り継がれることになるのかは検討もつかない。

 

私は現代建築をモダニズム建築の延長としてみている。つまりほとんど似通ったものとして扱う。建築史によくある第二次世界大戦後の建築を現代建築として分類する、という言い方とは異なるので、事前に誤解の無いように断っておく。

 

簡単に言うと、私は今建築家達が何世紀にも渡り、手放していった権能を拾い集める旅の途中にある。

 

旅といっても、自分探しの旅のように、物理的に実際にどこかへ趣いてインスピレーションを貰ったり、精神的に複雑な問題を想像することで全く異なる異郷の地で旅の疑似体験をする、つまりは妄想に耽っていたりすることもある。

 

しかしその旅の中でどうしても許せなくて、尚且つ乗り超えなくてはならない存在がある。

 

それはモダニズム建築、または現代建築。同時に私達、建築家の父たる存在だ。

 

もし一部のお金持ちの施主のために、彼らが世の中の動乱や戦争や伝染病といったものから一瞬でも肉体的に、そして精神的に逃れるために、人気のない郊外に、あるいは海の見える自然豊かな景観に、モダニズムを思わせる現代別荘をお金持ちのために生涯ずっと設計し、それを建てることになるのならば、私はきっと、批判され続けるモダニズムという父に、そしてオイディプス王のようにこれから誰かに何度も殺され続けるであろうモダニズムにすがりつきながら建築家の余生を全うすることになるのだろう。

 

その行為はまさにペットを人為的に作る農場を経営するのと似ていて、死にゆく先の長くない者をお金持ちの一時の余興のために提供することになり、次第に建築家は自分の魂までもすり減らす。

 

現代建築の美しいガラスのカーテン、重力を感じさせない構造美、多国文化を融合させ、1ミリもたぐわぬ精密で正確な家具をリビングの定位置に置き、病的なまで土の匂いを感じさせない空間を演出し、永遠に時の流れを感じさせない。

 

現代建築とは、子孫が反映することのないライオンとタイガーの交配種、ライガーのような…、いや手懐けられることを考えるならば、馬とロバの交配種であるラバを思わせられる存在だ。

 

ラバは人為的に作り出した雑種で、体が丈夫で、足腰が強く悪路を踏破できるし、山岳地の運搬道具として高く売れ、賢くて利口な家畜だが、ラバ同士で子孫繁栄はしない。

 

私が現代建築をラバのような存在に思うのは、すでに様々な建築家がモダニズム建築、つまり、現代建築を基盤に積み上げた金字塔が音を立てて崩れ落ちる所を何度も、何度も目撃しているからだ。

 

だからまずは、現代建築の子孫は繁栄しないという事実を受け入れることが先決だ。

 

その崩れた瓦礫の山をみて、「いや理論的には間違っていない、ただ夢を叶えるための技術が間に合っていないだけなんだ」と評論家は失敗した事実を認めずに”私の責任ではないのだぞ”、と早口に片付けたがる。

 

そして皮肉なことに、今度は評論家達が崩れた瓦礫の山の上でさらに金字塔を建てようとするので、ますます瓦礫の山が積み上がるだけなのだ、と私は現状を認識している。

 

だから私はモダニズムには軽率に従わない。全てが理想へと傾こうとする社会に、安易に迎合しない。歴史の偉人が踏み抜いた足跡は、ひょっとして崖に繋がる虚無への道なのではないかと、私は警鐘を鳴らす。

 

私の生きる時代では、どうも建築家は、見えなくて良いものは隠したがる。

 

つまり建築が建築として機能するために必要だった配管、空調、窓、ドアなどの建具、機械を含むものを表に出そうとしない。

 

なぜ出さないかというのは簡単だ。例えばヘンゼルとグレーテルに出てくるメルヘンチックなお菓子の家、を頭に思い浮かべてもらいたい。

 

お金持ち達はお菓子の家には、冷房が効いて、暖房が効いて、虫が湧かず、家具は全て可食でありつつ、服も手も汚さない、そして常に良い香りのする空間が”当たり前”だと思っている。

 

そして世界観を邪魔するものは徹底的に排除されているのが理想的だ。誰も配管だらけのお菓子の家なんて見たくはない。私だってそうだ。

 

別にそんな空間が当たり前だと思ってもらって結構、なにも実現不可能ではないので、配管やら空調やらを隠しつつ、食べられる建具やらをお金持ちの一瞬の体験のために準備してもよい。なんならインスタグラム用の写真をアップしてもらったらその場で家を廃棄したってそれは個人の自由だ。

 

しかし、実際にはお菓子の家としての世界観を維持するために、建築家は無理難題を強いられることになる。今を生きる建築家のほとんどはあくまで目に見える部分を美しく設計するのが仕事であって、配管がどのように地中を通って設置されているのか、なんてことは知らないし、だいぶ疎い。

 

知らないから、おそらく建築家は冷風の吹き出し口を「大体ここら辺隅っこに取り付けてもらえば…」と言わんばかりに図面に小さく書き記すだろう。

 

建築家が関心しているのは、わずかでも目に見える可能性のある構造と外観、そして空間として構成される壁、床、天井などの要素だけだ。

 

だから、設備や機械を取り付ける段階で、演出したい世界観を基軸に作った設計空間と誤差が生まれ衝突してしまう、という問題が起こる。

 

私は評論家の言いたいことも分かる。この設計空間との誤差に対処できるように技術をさらに進化させていけば、どんな空間だって審美や世界観を優先させて設計させることはできるはずだと、彼らは主張するに違いないが、設備の運行を支えている技術は応用は複雑であっても、簡単な仕組みでできているものばかり。

 

その仕組みを全く知らずにエンジニア達に設計図を丸なげするのは、建築家としては勉強不足であり、怠慢なのではないのか、と思う。

 

劇場に行ったとして、その劇場の外観や内装に目を惹かれても、劇場の入口が何処にあって、高低差がどれくらいあって、座席の配列や数、材質、公演会に使われる楽器の種類などによってどのくらい音声が反響して良い劇場空間の体験が得られているのかなんて、誰も気にしない。

 

だから、設計とエンジニアリングの領域を行き来しないのは現代の建築家が抱える問題としてはすごく深刻だ。建築家がモダニズム建築というものを扱う時に、そのものの性質を深く知るべきである。

 

しかし、そもそも私達は自分の身の周りにあるものをどれだけ把握しているだろうか?

 

建築はモダニズムの時代では、人口爆発に備えて大量生産できる原型を設計し、空間に機能という考え方を与えることで、建築を、さらに道具としての理性を求めた。

 

資本主義を基盤とする社会では、世の中は大量生産された物に溢れている。しかし現代建築の美しいガラスのカーテン、重力を感じさせない構造を私達が見たときに、それらと大量生産によって生み出されたものと直接、同じものだと認識できるだろうか?

 

逆に大量生産によって生み出されたものをみて、それらをモダニズム建築の一部として認識できるのか。

 

恐らくアップル社の製品を購入するお金持ちは工場で生産している従業員もアップル社のPCを使って製品管理をしているに違いないと思っているかもしれないが、実際にはひどい労働環境の中工場で製品生産を担っているのかもしれない。当事者以外、誰も知る由がない。

 

誰も工場のブラックボックスの中身は分からないし、その製品の出発点と結果だけしか情報を受け取ることはできない。そして製品を受け取ったところで、それを使って何を成し遂げるのかは誰も知らない。

 

物事をよく知らない、不安な状態の中で人は生きていると、昔から長らく存在しているしきたりや慣習を疑うことは少なくなる。そしてその末端である道具が本来持っていた意義や目的が何なのかを知ることなく、その生産が際限なく繰り返されるところを静かに傍観しているだけになっていく。

 

世に溢れた道具や物は大量生産の一連の流れや、その存在意義を説明できるが、生産された後に具体的な目標を提供することはない、ということだ。

 

建築がモダニズム運動の中で求められたのは、空間の道具としての理性。

 

ウィトルウィウスが提唱した良い建築の3条件は「美、実用性、堅固」を兼ねたものであることだが、空間としての道具性を追求していくうちに、その建築はシェルターの役割を持たなくてもよい、とした。

 

例えばお菓子の家の世界観を表現するためなら、一瞬だけ体験できる空間さえ、その空間での思い出さえ作ってしまえば、その建築が最悪崩れても、残らなくても良いわけだ。

 

なんならSNSやネットに一度アップしてしまえば、その媒体の中では残り続ける。遠くにある建築へ足を運ばずとも、雑誌には建築の美しい写真で溢れているし、メディアに載せられるような写真家による建築の写真は、普通の人より魅力的なものとして後世に残せるかもしれない。

 

そうして様々な媒体へ拡散していくうちに建築は従来の建築としてのアイデンティティーを全て捨てて、より概念的な何かへと変貌する。

 

建築が本来持っていたであろう権能は徐々に奪われ、建築は触知できない幽霊のような存在になるだろう。

 

建築にはスケールがあり、精度がある。

 

建築には厚みがあり、空間にメリハリを与える。

 

建築にはジョイントがあり、繋がりがある。

 

建築には重力があり、全ての建築はそれに従う。

 

建築には材料があり、材質にも方向性がある。

 

建築には作成する順序があり、パズルのように複雑だ。

 

建築は経年劣化し、歴史的な価値を持てる。

 

建築は服の延長線として、暖を取れて、日陰をつくる。

 

建築はデジタルでは表現できない。

 

つまり建築は物理的な存在であり、与えられた権能を存分に利用するべきなのだが、その物理の存在で囲った余白、空間、物語、体験のために、物理性を度々蔑ろにさせられてしまう。

 

そんな建築は、夢、世界観、思い出という無形で実体性がない創作物を少しでも形に顕現させようとして作ったフィギュア、絵、漫画、小説、音楽、楽器、彫刻、映画、ゲーム、なんてものと同じではないだろうか?

 

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人は現代社会に生きることで、ひとつの物に固執する必要がなくなった。

 

サラリーマンは、朝起きれば、出社のためにパジャマからスーツに着替え電車で通勤し、会社で仕事を終えるとそのまま食事に行き、後に帰宅し、体に気を遣う歳であれば、トレーニングウェアに着替えジムへ行ったり外でランニングをし、適度にカロリーを燃やしてからシャワーを浴びて、最後はパジャマに着替えて就寝する。

 

服を辿って見てみると、パジャマからスーツ、スーツからトレーニングウェア、トレーニングウェアからパジャマ、と社会生活の必要に応じて着替えている。冠婚葬祭があればタキシードを着たり、週末にデートで出かける際にはとびきりおしゃれな勝負服を着るのを望むだろう。

 

仮に原始的な社会、ローマ帝国的な社会で生きるとなると、カンガのような一枚布を羽織るだけで全ての社会活動と生活は完結する、と思う。

 

今度は建築を想像してもう一度この生活情景を辿ってもらいたい。

 

決して広くはないマンション、アパートの一室から、電車または私有車に乗って白い照明でデスクを照らされている会社へ向かい、仕事が終われば暖色の照明で照らされた人混みのある居酒屋で食事をし、家の一室へと帰宅し、気が乗れば外の公園か、ジムでひとっぱしりしてからまた家の一室に戻る。冠婚葬祭があれば、普段はいかない教会や神社へ行くかもしれないし、デート先では飲食店でパフェを食べながら、直前に見た映画の内容について語り合っているかもしれない。

 

これは私達の社会であり、生活でもある。だから社会に生きるには必要とされる形式を身につけて、形式以外の物は二の次で構わない。

 

活動範囲の狭い原始的な時代では、洞穴ひとつで生活と社会活動は完結するのかもしれない。

 

家は寝るためのスペースとキッチン、風呂場が確保できれば及第点、会社では仕事に使う全ての用品を置けるデスクとロッカーがあれば及第点、居酒屋はカウンター席があれば及第点、公園には照明があり夜でも足元が見えていれば及第点、ジムは夜遅くまで開いていたら及第点。

 

そうして機能の及第点を満たした物理空間で必要最小限、或いは最大公約数的な社会生活を送ることが出来る。

 

もしもこの条件を上回る空間で生活できるなら尚良い。感染症が蔓延る外に行かなくてもリモートで業務をこなせるなら、会社に自分の仕事用品を置く必要すらなくなり、少し自室の空間と経済力に余裕があるのなら、家具を新調して家をさらに住みやすくすることだってできる。

 

資本主義社会で必要とされる建築は、一つひとつが全ての方面で権能を発揮していなくてもよい。建築は必要とされる機能に応じて特化していてもいいのだ。ただ、こうした建築が所持している権能は相対的に少なくなる。

 

例えばだが、遺棄された古い工場は、リノベーションによっては無限の可能性を秘めている。

 

工場なのに、病院にも、美術館にも、博物館にも、体育館にも、学校にも、県庁舎にも、ホテルにもなり得る。それは工場が色んな目的をもつ空間としての最低条件を満たすからだ。

 

工場は基本、製品の生産ラインの設備機材を大量に格納するので、大空間であり、工場で働く従業員の生産効率と安全のために、採光が十分で、風通しもあって、増築にも耐えられる構造体を持っている。

 

しかし、大型のクルーズ船はどうだろうか。どんなに大型であっても、クルーズ船を改造して何か別の空間にする、なんて話はあまり聞かない。クルーズ船と言うと旅行のイメージしかないし、水上の環境で出来る活動や、求められていることも、限られている。

 

だから、大空間でさえあれば、工場のようにリノベーションが出来るというわけではない。工場は建築として元より、未来に色んな使い方をされることを想定して設計している、という考え方がしっくりくる。

 

では工場は現代建築の、道具としての理性は持っているのか、を考えよう。

 

工場は資本主義社会の基盤である大量生産活動を担う労働のための空間だが、それ以外に柔軟な使い方も出来る。

 

しかし工場はモダニズム建築なのか?と問われると、いや恐らくそうじゃないと建築家や評論家は唱えるはずだ。

 

工場そのものは17世紀の産業革命の頃からあるし、一言に工場と言っても、製鉄工場なのか、靴工場なのかによっては、全く使用される設備も異なるので、その工場内部空間の機能も異なる。つまり、”用途がはっきりしないものをモダニズム建築として分類しない”、という答えが帰ってくるのだと思う。

 

そうなると、製鉄工場と靴工場とで設備の違いによって、さらに空間の道具としての理性を突き詰める余白ができたのだと、解釈しよう。

 

靴工場はさらに靴を効率的に生産するために、余分な空間を削ぎ落とし、靴に適した設備を導入し、なんだったらロボットに自動化してもらえば、人の労働環境に必要な採光だってあまり必要ないのかもしれない。

 

そうやって道具の理性を突き詰めると、最終的に靴工場として使う予定の空間は”靴しか作れない”空間になる。

 

靴しか作れないので、靴しか作らない。しかし靴を作ってどうするのか?靴工場が靴を作る機能を全うし終えれば、もはやその空間は存在意義すら失う。そして靴工場は撤去され、新たなる生産活動のために他の何かを作る工場を建設するだろう。

 

そのような○○しかできない空間はモダニズム建築としての理性を全うしたが、建築の権能としてのスケール、厚み、材料、作成順序、ジョイント、重力、歴史、熱環境なんて全くお構いなしでも構わない。

 

要するに、モダニズム建築の本質とは、非常に精密な建築であり、非常に精密な時限爆弾だ。

 

精密な建築を物理的な意味だけではなく、権利的な意味合いでの精密な建築を思い浮かべて欲しい。

 

例えば、私は建築家として、コンクリートの耐久年数が50年だと知っているので、RC造の建築は50年を過ぎると補修が必要になったり、老朽化して倒壊の恐れが出てくることを理解している。

 

そして私は施主には、「この住宅は50年分の契約しか持続しません。50年間は住宅として使えることを私が保証いたしますが、50年後に住宅は使えなくなるので、ご注意ください。」とだけ伝え、契約をする。

 

RC造の住宅の建設完成時に私は時限爆弾を仕掛け、仮に、50年後にどんな人が住んでいようと、50年と0時0分0秒後キッカリと建築自体が全て粉々にされて灰と砂になるように仕向ける。

 

そうすれば、建築を完成時に提供した施主との契約を”精密且つ正確”に果たせたことになり、その50年後に使われ続けて倒壊したり、他の被害によって人的な傷害が起きたり、後に私が余分な責任を負うことも、建築家としての名が傷つくこともない。

 

その代わり、50年間の間はどんな手を使ってでも、その住宅が住宅としての機能を果たせなくなることを阻止する。勿論建設から50年の間に起こった如何なる小さな建築の不備や問題も私の責任だとしよう。

 

つまり私は現段階で、この建築空間が果たせる役目を最優先に、建築を設計したのだ。50年間キッカリの保証が付いた住空間、しかし50年経てば権利の譲渡をしても”物理的にこの建築物は保証の限界”を超えたので、安全のために、そして想定した範囲で使われるように破壊される細工をする。

 

だから私の設計した空間では、設計した以外の用途では使ってくれるな、しかし設計した空間の品質は私が存命中であれば担保しよう、という悪魔の契約に違いないわけだ。

 

どんな悪魔も契約には忠実だ。契約違反をすれば、その契約者の死、またはそのための対価を払ってもらうことになる。しかし建築家は人であり、不老不死でも不滅の存在でもない。自らの寿命よりも長く残る建築物に自壊の爆弾を施すのは、悪魔側には利益があり、契約者側には不利益しかない。

 

モダニズムは機能を与える、または空間に名前を与えるといった行為は、傲慢で、完璧主義な、融通の効かない、まるで我が身を全知全能の神だとも言わんばかりの愚行なのだ。

 

では当時者のいなくなった空間はどうなるのか、と聞かれたならば、それは契約者側が、または第三者が判断することになる。

 

しかし考えてみて欲しい。建築設計者はまるで自分が、或いは自分の作品を他人に勘違いされるのを怖がり、辞書のように分厚い説明書を作り、建築が竣工したと同時に、彼らがさらに臆病者であれば、竣工前にもありったけのメディアに「私は生まれるのだ!拍手喝采をしろ!そして万が一にも私を取り違えるなよ!!」と言わんばかりの言葉を叩きつけている情景を。

 

かつて侵略される寸前のフィンランドがロシアの軍兵に領土を渡して相手に利益を出させまい、と焦土戦術を行ったように、建築家も契約者や第三者が付け入る隙を見せまいと躍起になる。

 

しかし、領土を多く余分に燃やしてしまうと逆に建築家側の損なので、第三者の顔色を常に注意深く伺いつつ、片手には丸太を持ち木屋を建てつつ、片手には松明を持ち、燃やすために注意深く観察する、といった八方塞がりな光景も、実に、滑稽すぎる。

 

それは同時に蜘蛛の糸を登るカンダタが下に続いて糸をのぼる便乗者を蹴落とすのを確認して、「浅ましい」と糸を一刀両断する釈迦のように、不気味でタチが悪い全能者のようにも私は感じる。

 

そして勿論、建築家にも、施主にも、第三者にも見放される建築は存在するだろう。

 

つまり、空間と付属された価値が全てが焦土と化した土地、ポッカリと空いてしまったクレーターのような、物質的には存在するのに、誰も寄り付かなくなり、次第に忘却の彼方へと追いやられた建築が。

 

そんな建築は、スケールも、厚みも、素材も、重力も、繋がりも、方向も、順序も、歴史も、暖かみのような権能の薪を、自らの存在を灯す火の中に焼べることもできない。

 

それは一体亡者か、幽霊か、妖怪か。どちらにせよ深い執念の塊である。

 

後に子孫を残せない自壊の建築、それが私達が信仰していたモダニズム建築の正体だ。

 

モダニズムは理性的で精密的で厳格な父であるとすると、オイディプス・コンプレックスの度重なる父殺しを避けるためには、この終わりの見えない精密さから抜け出して考える必要がある。

 

精密さは建築を思い通りに建てるための基盤であり、誤差は少なければ少ないほど、設計者の意図を反映した建築を築くことができる。

 

そして建築を長く世に残るような耐久性のあるものに仕上げたいのなら、物理法則に従うというルールの中で権能を発揮して、建築に長く残ってもらうための価値を与えなければならない。

 

しかし、人々は現代社会に生きる過程で、建築に交流、環境、速度といった要素を求めた。

 

哲学者フーコーは、”建築は交流、環境、速度を体現することはできない。何故ならそれは建築という触知媒体の中に収められる、あるいは付与される空間の役割だからだ。”といった彼の主張を残している。

 

交流は都市といった高密度に人が集まり、その中で労働するという生活形態であり、人類の最大規模の発明だ。環境は生態系という動植物の生活を豊かにし、地理や気候に適応するために進化させるフレームワークだ。速度は情報束であり、目まぐるしく変わる人と社会と経済を表現するパラメータだ。

 

その中に建築という触知媒体が絡み合う必要性はない。空間という概念を主体の媒介にすれば事足りる。

 

つまり建築はメディアとしての役割をさらに求められている。

 

コワーキングスペースや広場という情報を持った空間は人々の交流を促す。

 

等しく温度の管理された空気の環境をすべての部屋に完備することで人は赤道直下地域に住もうと、または南極大陸に住もうとも全く同じ条件で厳しい外界に対応することができる。

 

建築という媒体に速度を設けることで、その時間差を利用して不動産は先物取引、または錬金術のように価値を生むことができる。

 

そして情報の拡散と情報を特定の物理空間に収束させて留めることを同時に行うことで、建築に影響力を持たせ、無形の権威を含ませられる。

 

現代建築は情報束として世界観、交流、速度、環境などの様々な情報を繋ぎとめる装置として機能し、これらメディアの価値の変動によって、現代建築の価値も連動する。

 

しかしこの過程を意識して、リアルタイムで変化を感じ取れる人はそう多くない。

 

私は平成生まれだが、生まれたころにはすでに冷蔵庫はあるし空調もある。建築史または世界史における媒体のパワーバランスが大きく変わったとされる出来事を自覚して生きていたわけではない。

 

例えば冷房は生活に欠かせないものだが、実に不思議な存在だ。

 

暖房や火は熱源として、原始社会に重宝された古来の由緒ある道具として利用されてきたのだが、温度を下げる道具として登場した冷房は、原理を知らなければ、まるで時間を逆行させたような、当時の人たちの熱力学に対する常識を覆すような奇跡に近い現象だったに違いない。

 

温度を上げることもできれば、温度を下げることもできる。いつでもどこでも最適な温度環境を作り出すことができ、365日を全て”最高な一日”にすることができる。

 

温度を制することは、空気を制することに繋がり、冷やされた空気を逃がさなければ、その部屋の空間は常に一定の、快適な空間だ。

 

空調は気候に応じて対策を取る建築を上回る役割をを果たした。

 

するとどうだろうか。緊急手術のために即席で展開できる無菌室のように、もはや薄い膜を膨らませ、中に理想の空気を充満させるだけで空間として使用できる。

 

煉瓦やコンクリートの壁を囲い、風雨や急激な温度変化をしのぐ必要はない。断熱性能の良い膜を膨らませるとそれだけでどんな環境にも適応して廉価で即席な空間を確保できる。そこに建築の権能は反映されない。

 

そして全地球に空調は浸透し、あって至極当前のものとして扱われるようになる。今や公共施設に空調が完備しているなんて当たり前だし、例えば多湿な環境で革製品や生ものを取り扱う商売をするなら、除湿の効かない空間ではあっという間にカビが生えて使い物にならなくなるだろう。

 

特にシンガポールは空調を前提に高密度を実現させた国の代表例だろう。建築は設備のように除湿や温度を一定管理することはできない。

 

シンガポールの建築は空調設備を組み込むことを前提として設計されている。そのため、大多数の建築の形態に気候的な特徴はあまり反映されていない。勿論植物を植えた屋上緑化をした建築はたくさんあるが、それはあくまで空間の一部に付属したものであって、それが温度管理の主導権を握っているわけではない。

 

さらに中国の高層住宅区の写真を調べてみて欲しい。中国は広い国土を有していて、多様的な気候特徴のある国だが、肝心の高層マンションは形態はほぼ全て同じであり、当地文化や地域文化、また建築形態の気候的な差異は全く反映されていない。

 

中国の北の地方ではマンションには過剰なほどの床暖房と暖房が効いていて、南の地方では冷房の効いた部屋とすごく小さなベランダがセットになっている。冬だと暖房が効きすぎて暑いので、部屋の中では半袖半ズボンになるし、夏だと逆に空調が効きすぎて寒いので、今度はクローゼットからジャケットを引っ張り出して羽織る。

 

明らかに供給だけがオーバーしている。シンガポールのように空調がなくてはならないような都市計画をしたわけではなく、空調やそうした熱環境があって当たり前になっている。

 

このあって当たり前という状態は、時に人の判断の曇らせたりもする。皆が赤信号を渡っているので、自分も赤信号を無視して渡り、皆がプラスチックのレジ袋を無料でもらっているので、自分も当たり前のようにレジ袋を貰う。

 

その行為が環境や社会に対して深刻な影響を与えるという事実が明るみに出てから、ようやく負の作用を認識するという状態だろう。

 

しかし、全ての建築に空調が完備されていて何が悪い?

 

または建築は人に従うのだから、全ての人が等しく同じ条件の空間を享受できて何か問題でもあるのか?という話だ。

 

例えば私達が普段から使用しているSNSやネットは、その空間が無限の空間を持ち、永遠に記録されているものだと多くの人は実感している。

 

ネットワークはつまるところ、高性能の集積回路を搭載したコンピューターが、擬似的に仮想の容量空間を生み出しているが、そのコンピューターが5G回線や全世界の地中や海底奥深くに通信のためのファイバーケーブルを通して、高速通信を実現している。

 

そしてスーパーコンピューターが高速処理をするために、莫大な電力を消費し、莫大な熱を放出し、その熱を冷ますために、また莫大な冷却装置、または絶対零度に近い莫大な消費が行われる空間を、維持する必要がある。

 

しかしそのネットワークを維持するために、一体どれだけ環境に悪影響を及ぼす出来事が積み重なっているのか、私達の知る由もない。便利なものはあって当たり前なので、よく知らないし、わからない。良いものは平等に享受すべきなので、全てに等しく必要だと。

 

ネットワークはA地点からB地点への往来や移動を便利にしてくれたかもしれない。飛行機は各国の空港へと誘われ、その空港に繋がる都市へ移動が便利になったことで、さらに地域経済や生活レベルの向上に貢献したかもしれない。

 

しかし、A地点からB地点への点間の移動はやがて、その過程の線や、過程を移動する最中に偶発的に起こるであろう機会や出来事から私達を引き離す。

 

つまり、すぐに移動し、即座に欲しいものを得られるようになったが、実際には、多様な機会を失い、さらには多様性を失い、豊かではなくなる。

 

報酬系を刺激されて条件反射のように、A-B間の移動を繰り返し、消費を繰り返し、生産を繰り返す。実に中毒性を持った行動の如く。

 

数量的には際限なく増大していき、効率的になっていく資本主義や、グローバル化を推し進める社会、そして何も知らずに言われるがままを為す大衆。

 

私はこのような態度に、このような考え方に辟易し、軽蔑する。

 

歴史を知らないことで、無条件に現代社会の流れに飲まれ、自分の意見を持たずに、沈むことが確定している船に乗る。資本主義が産んだ負の遺産の正体を認識することもなく、なんとなく資本主義のルールの中で建築を建てる建築家。

 

想像力が欠けているので、自分の、または社会の次の状態を予測できない。

 

まるで視界から母親が居なくなってしまったことが、この世から消えたかのように感じて、泣きじゃくる赤ん坊のように、次の出来事が全く想像できない、幼稚で、哀れな状態だ。

 

では、なにが私に想像力を与えてくれるのか。

 

それは慎重に知ることしかない。

 

過去の建築家がどんな思いで建築を作り、どんな手掛かりが残されていて、何を後の世代に受け継ごうとしているのか。

 

建築家が知るべきは、形態を与えてくれる建築史だけではなく、考え抜く力を与えてくれる哲学史、物理世界の工具としての科学史、擬似世界の工具としてのメディア史、そしてそれらに意味を与えてくれる宗教も知るべきだ。

 

薪が徐々に失われていった世界で、過去に捨てられた薪を拾い集め、自身の存在を再度照らし、燃え続け、世に残りつづける建築を作る必要がある。

 

それは少なくとも、現代建築と空間の発想にのみに宿るような自分勝手で、独善的なものではない。未来の誰かを想って建築する必要がある。

 

建築を道具として使うのは構わない。しかし、その道具が決められた使い方でしか使われないのは、寂しくて、つまらない。

 

道具を生むのであれば、使い手に色んな使い方を、そして楽しい使われ方を望むのが、作り手の根本的な欲求だろう。

 

だからこそ、私がいずれ作る建築は、色んな使い方ができるように、叡智の限りを詰め込み、皆を飽きさせないものを世に送り出す。

 

建築は自らの権能を取り戻すことで、ようやく自らの土俵で、自分を語ることができる。

 

私はもう、自壊が許された空間の絵空事には付き合わない。

 

私は建築の権能を取り戻すために、加速しすぎた時間を緩めて、いとも簡単に建築が捨てられないように、歴史を勉強し、100年後に残る建築を建てるための旅に出た。