設計進捗

建築好きのブログです。

そして、建築家は失われた権能を探す旅に出た~ 2/3

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人は現代社会に生きることで、ひとつの物に固執する必要がなくなった。

 

サラリーマンは、朝起きれば、出社のためにパジャマからスーツに着替え電車で通勤し、会社で仕事を終えるとそのまま食事に行き、後に帰宅し、体に気を遣う歳であれば、トレーニングウェアに着替えジムへ行ったり外でランニングをし、適度にカロリーを燃やしてからシャワーを浴びて、最後はパジャマに着替えて就寝する。

 

服を辿って見てみると、パジャマからスーツ、スーツからトレーニングウェア、トレーニングウェアからパジャマ、と社会生活の必要に応じて着替えている。冠婚葬祭があればタキシードを着たり、週末にデートで出かける際にはとびきりおしゃれな勝負服を着るのを望むだろう。

 

仮に原始的な社会、ローマ帝国的な社会で生きるとなると、カンガのような一枚布を羽織るだけで全ての社会活動と生活は完結する、と思う。

 

今度は建築を想像してもう一度この生活情景を辿ってもらいたい。

 

決して広くはないマンション、アパートの一室から、電車または私有車に乗って白い照明でデスクを照らされている会社へ向かい、仕事が終われば暖色の照明で照らされた人混みのある居酒屋で食事をし、家の一室へと帰宅し、気が乗れば外の公園か、ジムでひとっぱしりしてからまた家の一室に戻る。冠婚葬祭があれば、普段はいかない教会や神社へ行くかもしれないし、デート先では飲食店でパフェを食べながら、直前に見た映画の内容について語り合っているかもしれない。

 

これは私達の社会であり、生活でもある。だから社会に生きるには必要とされる形式を身につけて、形式以外の物は二の次で構わない。

 

活動範囲の狭い原始的な時代では、洞穴ひとつで生活と社会活動は完結するのかもしれない。

 

家は寝るためのスペースとキッチン、風呂場が確保できれば及第点、会社では仕事に使う全ての用品を置けるデスクとロッカーがあれば及第点、居酒屋はカウンター席があれば及第点、公園には照明があり夜でも足元が見えていれば及第点、ジムは夜遅くまで開いていたら及第点。

 

そうして機能の及第点を満たした物理空間で必要最小限、或いは最大公約数的な社会生活を送ることが出来る。

 

もしもこの条件を上回る空間で生活できるなら尚良い。感染症が蔓延る外に行かなくてもリモートで業務をこなせるなら、会社に自分の仕事用品を置く必要すらなくなり、少し自室の空間と経済力に余裕があるのなら、家具を新調して家をさらに住みやすくすることだってできる。

 

資本主義社会で必要とされる建築は、一つひとつが全ての方面で権能を発揮していなくてもよい。建築は必要とされる機能に応じて特化していてもいいのだ。ただ、こうした建築が所持している権能は相対的に少なくなる。

 

例えばだが、遺棄された古い工場は、リノベーションによっては無限の可能性を秘めている。

 

工場なのに、病院にも、美術館にも、博物館にも、体育館にも、学校にも、県庁舎にも、ホテルにもなり得る。それは工場が色んな目的をもつ空間としての最低条件を満たすからだ。

 

工場は基本、製品の生産ラインの設備機材を大量に格納するので、大空間であり、工場で働く従業員の生産効率と安全のために、採光が十分で、風通しもあって、増築にも耐えられる構造体を持っている。

 

しかし、大型のクルーズ船はどうだろうか。どんなに大型であっても、クルーズ船を改造して何か別の空間にする、なんて話はあまり聞かない。クルーズ船と言うと旅行のイメージしかないし、水上の環境で出来る活動や、求められていることも、限られている。

 

だから、大空間でさえあれば、工場のようにリノベーションが出来るというわけではない。工場は建築として元より、未来に色んな使い方をされることを想定して設計している、という考え方がしっくりくる。

 

では工場は現代建築の、道具としての理性は持っているのか、を考えよう。

 

工場は資本主義社会の基盤である大量生産活動を担う労働のための空間だが、それ以外に柔軟な使い方も出来る。

 

しかし工場はモダニズム建築なのか?と問われると、いや恐らくそうじゃないと建築家や評論家は唱えるはずだ。

 

工場そのものは17世紀の産業革命の頃からあるし、一言に工場と言っても、製鉄工場なのか、靴工場なのかによっては、全く使用される設備も異なるので、その工場内部空間の機能も異なる。つまり、”用途がはっきりしないものをモダニズム建築として分類しない”、という答えが帰ってくるのだと思う。

 

そうなると、製鉄工場と靴工場とで設備の違いによって、さらに空間の道具としての理性を突き詰める余白ができたのだと、解釈しよう。

 

靴工場はさらに靴を効率的に生産するために、余分な空間を削ぎ落とし、靴に適した設備を導入し、なんだったらロボットに自動化してもらえば、人の労働環境に必要な採光だってあまり必要ないのかもしれない。

 

そうやって道具の理性を突き詰めると、最終的に靴工場として使う予定の空間は”靴しか作れない”空間になる。

 

靴しか作れないので、靴しか作らない。しかし靴を作ってどうするのか?靴工場が靴を作る機能を全うし終えれば、もはやその空間は存在意義すら失う。そして靴工場は撤去され、新たなる生産活動のために他の何かを作る工場を建設するだろう。

 

そのような○○しかできない空間はモダニズム建築としての理性を全うしたが、建築の権能としてのスケール、厚み、材料、作成順序、ジョイント、重力、歴史、熱環境なんて全くお構いなしでも構わない。

 

要するに、モダニズム建築の本質とは、非常に精密な建築であり、非常に精密な時限爆弾だ。

 

精密な建築を物理的な意味だけではなく、権利的な意味合いでの精密な建築を思い浮かべて欲しい。

 

例えば、私は建築家として、コンクリートの耐久年数が50年だと知っているので、RC造の建築は50年を過ぎると補修が必要になったり、老朽化して倒壊の恐れが出てくることを理解している。

 

そして私は施主には、「この住宅は50年分の契約しか持続しません。50年間は住宅として使えることを私が保証いたしますが、50年後に住宅は使えなくなるので、ご注意ください。」とだけ伝え、契約をする。

 

RC造の住宅の建設完成時に私は時限爆弾を仕掛け、仮に、50年後にどんな人が住んでいようと、50年と0時0分0秒後キッカリと建築自体が全て粉々にされて灰と砂になるように仕向ける。

 

そうすれば、建築を完成時に提供した施主との契約を”精密且つ正確”に果たせたことになり、その50年後に使われ続けて倒壊したり、他の被害によって人的な傷害が起きたり、後に私が余分な責任を負うことも、建築家としての名が傷つくこともない。

 

その代わり、50年間の間はどんな手を使ってでも、その住宅が住宅としての機能を果たせなくなることを阻止する。勿論建設から50年の間に起こった如何なる小さな建築の不備や問題も私の責任だとしよう。

 

つまり私は現段階で、この建築空間が果たせる役目を最優先に、建築を設計したのだ。50年間キッカリの保証が付いた住空間、しかし50年経てば権利の譲渡をしても”物理的にこの建築物は保証の限界”を超えたので、安全のために、そして想定した範囲で使われるように破壊される細工をする。

 

だから私の設計した空間では、設計した以外の用途では使ってくれるな、しかし設計した空間の品質は私が存命中であれば担保しよう、という悪魔の契約に違いないわけだ。

 

どんな悪魔も契約には忠実だ。契約違反をすれば、その契約者の死、またはそのための対価を払ってもらうことになる。しかし建築家は人であり、不老不死でも不滅の存在でもない。自らの寿命よりも長く残る建築物に自壊の爆弾を施すのは、悪魔側には利益があり、契約者側には不利益しかない。

 

モダニズムは機能を与える、または空間に名前を与えるといった行為は、傲慢で、完璧主義な、融通の効かない、まるで我が身を全知全能の神だとも言わんばかりの愚行なのだ。

 

では当時者のいなくなった空間はどうなるのか、と聞かれたならば、それは契約者側が、または第三者が判断することになる。

 

しかし考えてみて欲しい。建築設計者はまるで自分が、或いは自分の作品を他人に勘違いされるのを怖がり、辞書のように分厚い説明書を作り、建築が竣工したと同時に、彼らがさらに臆病者であれば、竣工前にもありったけのメディアに「私は生まれるのだ!拍手喝采をしろ!そして万が一にも私を取り違えるなよ!!」と言わんばかりの言葉を叩きつけている情景を。

 

かつて侵略される寸前のフィンランドがロシアの軍兵に領土を渡して相手に利益を出させまい、と焦土戦術を行ったように、建築家も契約者や第三者が付け入る隙を見せまいと躍起になる。

 

しかし、領土を多く余分に燃やしてしまうと逆に建築家側の損なので、第三者の顔色を常に注意深く伺いつつ、片手には丸太を持ち木屋を建てつつ、片手には松明を持ち、燃やすために注意深く観察する、といった八方塞がりな光景も、実に、滑稽すぎる。

 

それは同時に蜘蛛の糸を登るカンダタが下に続いて糸をのぼる便乗者を蹴落とすのを確認して、「浅ましい」と糸を一刀両断する釈迦のように、不気味でタチが悪い全能者のようにも私は感じる。

 

そして勿論、建築家にも、施主にも、第三者にも見放される建築は存在するだろう。

 

つまり、空間と付属された価値が全てが焦土と化した土地、ポッカリと空いてしまったクレーターのような、物質的には存在するのに、誰も寄り付かなくなり、次第に忘却の彼方へと追いやられた建築が。

 

そんな建築は、スケールも、厚みも、素材も、重力も、繋がりも、方向も、順序も、歴史も、暖かみのような権能の薪を、自らの存在を灯す火の中に焼べることもできない。

 

それは一体亡者か、幽霊か、妖怪か。どちらにせよ深い執念の塊である。

 

後に子孫を残せない自壊の建築、それが私達が信仰していたモダニズム建築の正体だ。

 

モダニズムは理性的で精密的で厳格な父であるとすると、オイディプス・コンプレックスの度重なる父殺しを避けるためには、この終わりの見えない精密さから抜け出して考える必要がある。

 

精密さは建築を思い通りに建てるための基盤であり、誤差は少なければ少ないほど、設計者の意図を反映した建築を築くことができる。

 

そして建築を長く世に残るような耐久性のあるものに仕上げたいのなら、物理法則に従うというルールの中で権能を発揮して、建築に長く残ってもらうための価値を与えなければならない。

 

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